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2年:K.457 (Maria João Pires ) [音楽]

2024年4月7日(日)晴れ.明日から雨だというので,公園の桜もこれが最後だろうとまた見に行った.日曜日のせいもあって,凄い人出で自転車がぶつからないようにするのに苦労する.みんな楽しそうだ.当たり前だろうが,暗い気持ちで花見に来る人はいるのか? ここにいるんだな,ひとり.


イヌ散歩で週末山を歩くときは,視線の高さは山の木々の高さ,あるいは空の高さだった.そのくせがまだ抜けなくて,公園にいっても上を見上げて歩く.これで桜は終わりだが,例年より遅れ気味に新芽が出始めていて,梢の網の目のような清楚はまた桜とは別の楽しみだ.これを独りでみるようになって,この4月でもう2年だ.

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昼間に散歩に出るのが平気になった.死んで数ヶ月は,耳にイヤホーンをしてあるいた.ポッドキャストの解説に注意をそらして,昔の散歩のことを考えないようにしないと歩くことはできなかった.その補助がいらなくなった.大きな変化だ.元気だった頃に見知っていた秋田犬(2頭)や柴犬に偶然であうことがあっても,目をそらさなくなった.逆に最近見かけなくなったスノーウィーと老人のことは気になっている.元気だろうか?


あれ以来,空洞になっていた心の暗渠に汚い水が流れて,落ち葉も溜まった.価値のないものがあちこちに詰まっているが,ともかくも今は動いている.だって,ウクライナ戦線やイラクの報復攻撃がどうなるかとか,金や石油の急騰の今後の見通しや,生活の維持するための計画や断念や,そんな散文的な迷いで一杯だから,命の水は流れようもない.だが,ともかくも空いた穴は崩落しなかった.

〜〜〜

「彼はあまり真心がありすぎる上に活動的でなく,罠にかかりやすいし,評判をとるのに有利な方法にあまりにも関心がなさすぎます.ここで成功しようと思ったら,一筋縄でゆかないような,敏腕な野心家でなくてはなりません.才能はこの半分でいいから,もう二倍も業師だったら,わたしは彼の成功をちっとも心配しないでしょう.」
(1778年7月27日付,当時モーツァルトを下宿させていたグリムから,モーツァルトの父レオポルド宛の有名な手紙.吉田秀和訳)

「友よ,ぼくと一緒に悲しんでくれたまえ! 今日は一生でもっとも悲しい日だった」(1778年7月3日付,パリより,友人に旅先での母の死を知らせるモーツァルトの手紙.吉田訳)

〜〜〜

この前後,1778年7月の前後(当時22歳)に作曲されたイ短調ピアノソナタK310を聞いた(ピアノ:A. シフ ).随分久しぶりで,一部は忘れてしまっていたが,母親をなくした前後に書いたこと,および上の手紙のことはよく覚えている.

それから,ハ短調のピアノソナタ(K457)も続けて聴いた.こちらは1784年完成だから,K310からおよそ6年が経過している.その間になにがあったか? 

彼は結婚を夢見た女性(アロイジア)に失恋して,失意のうちに故郷ザルツブルクにもどる.そこで,大司教と喧嘩してウィーンにとびだす.ウィーンで結婚し,1783年長男が生まれる(2ヶ月で死去).父と不仲になる.次男がうまれた.

世間知らずの若者にとって,4年の間に,失恋,フリーランスの音楽家としての独立,結婚,実家との不仲,と相当なストレスの連続であったとおもわれる.借金漬けになって,死ぬまでもう7年しかない.


昔からK457はあんまり好きな曲ではなかった.ベッドによこになって聴いていた(ピアノ:M. J. ピリス).激しい曲なので,それがイヌ亡き後の2年間の思いと必ずしも重ならないのだが,やはり引き込まれる.



3楽章にはいって,曲の切迫は頂点に達して,とうとう曲全体が崩れそうな破断.水中に墜落しそうな思いが,しかしかろうじて踏みとどまって,スレスレで崩れない.マーラーを凝縮したような数小節の消え去りそうなピアニッシモの葛藤と回復.この部分に,死後の2年間が凝視され,音楽をきいてはじめて涙が出た.


死んだイヌの思い出を毎月書くのはこれで最後にしよう.しばらくして,いまは汚れた水路に別のものが流れるとき,私が最も愛したものについてふたたび書きたい.





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