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敵性国家 [本]

2024年3月27日(水)晴れ.

ウクライナ「戦争」の今後にからんで,最近の露テロの捜査の展開を注視しているので,夜ふかしが続いている.良くないことだが,如何ともしがたい.

これらの緊張と並行して,Yahoo Japanに,神戸市外国語大のロシア語専攻の学生らの多くが,「なぜ敵国の言語を学ぶのか」と心ない言葉をかけられるなど「風圧の強まり」を実感している,という記事があった(https://news.yahoo.co.jp/articles/0a0d2044fc98debff852ae0ae1fdc47eeeb859bb )

この記事に付随する読者からのコメント欄には,太平洋戦争当時の英語に対する我が国の社会的な風潮に言及しつつ,「敵性言語」という観点から「風圧の高まり」の是非を吟味する意見もあった.敵を知らずば,というわけである・・・日本もつまらん国になりつつある(もともとそうだったのだ,と言われればそうかもしれないが).



露との付き合いは文学から始まった.中学生の頃の最初の雷の一撃.それから,高校時代にみた映画(ドクトルジバゴではない)が第2撃.詳しいストーリーは完全に忘れてしまったが,地平線まで真っ白な広大なロシアの雪原を主人公が恋人とソリに乗って逃げる場面で,チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番がかかる.息を詰めてみた.映画そのものはおそらくはB級映画だが,この場面と音楽を確かめたくて,少ない小遣いをはたいてもう一度見に行った.完全に魅了された.

大学以降に,ロシアの数学者の書いた本を何冊か読んだ(邦訳及び英訳).これが第3撃(そんな表現があればだが).いまでも米アマゾンの古本で探して入手した,モスクワの出版社から出版されたV. S. Vladimirovの本が書棚にある.

以来,最も繰り返し読んだ本は『戦争と平和』である(トルストイとモーツァルトは天才とは何かの個人的な定義そのものである).


「わたしの作品がロシア語に飜譯されると云うことは勿論甚だ愉快です.近代の外国文藝中,ロシア文藝ほど日本の作家に,――と云うよりも寧ろ日本の読書階級に影響を与えたものはありません.日本の古典を知らない青年さえトルストイやドストエフスキイやトゥルゲネフやチェホフの作品は知っているのです.我々日本人がロシアに親しいことはこれだけでも明らかになることでしょう.…この文章は簡単です.しかしあなたがたのナタアシアやソオニアに我々の姉妹を感じている一人の日本人の書いたものです.どうかそう思って読んで下さい」(芥川龍之介「露譯短篇集の序」

「ソ連が出来る前からロシアはあった.そして私たちの文学的素養の大半は,トルストイ,ドストエフスキイ,チェホフによって,「ロシア」によってつちかわれたものであった.恐らく今日モスクワを訪れる外国人の中で,日本人ほどロシアについて詳しい人種はいない.これはいつもソ連人をかなり驚かすことのようである.

今日モスクワ大学の建っている丘が,もと「雀ケ丘」と呼ばれて,ナポレオンがモスクワの大火をながめた地点である,ということは,トルストイの『戦争と平和』を読んだことのあるもの者ならだれでも知っているが,『戦争と平和』が日本ほど読まれている国は,世界中にないのである.はじめてソ連の土を踏む私の胸は,十年前にアメリカへ行った時より,期待に高鳴っていたということができる」(大岡昇平「ソ連の思い出」)


日本を代表する近現代の知識人が自らの内部形成への重大なインパクトとして誇らしげに言及した文化と言語が,いまや社会的に訴追される対象になったとすれば,我が国の衰亡は経済面よりむしろ文化面で起きつつあると言えるかもしれない.

愚かなことだ.誰が敵なのか,それは自分で決める.同時に,どこに優れたものがあるのかも,自分で決めるのだ.見出した宝を捨てなどしない.

BlackRock について調べようとしたら,あまり本がない.一時的に品切れが数冊(英語版)あるが,すぐに入手可能なものはドイツ語しかない.錆びついた刀を研ぎつつやるしかない.時間がいくらあっても足りない.




船長のプロフィールファイルはいまは削除されているようだ これもBlack Swan eventsのひとつかw これから目が回る展開が続きそうだ.




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1812年の彗星 [本]

2023年11月30日(木)暗い木曜日.

『戦争と平和』が第2巻の終わりまで来た.Peaver&Volokhonskyの英訳版で,ちょうど600ページのところ.まだ60ページほどしか読んでいないような気がするのだが,あっという間だった.あと半分で終わってしまうのが残念でたまらない.

通勤の電車の中でよむのが楽しみで,特急にのらずに各駅停車をえらぶ.ページを開けば,電車の中が1811年末のモスクワになる.そして,Prechistensky Boulevardの夜空に,運命の年1812年の彗星が現れて,ピエールとともにそれを見上げる:

"the huge, bright comet of the year 1812--surrounded, strewn with stars on all sides, but different from them in its closeness to the earth, its white light and long, raised tail, as they said, all sorts of horrors and the end of the world.

But for Pierre this bright star with its long, luminous tail did not arouse any frightening feeling. On the contrary, Pierre, his eyes wet with tears, gazed joyfully, at this bright star, which, having flown with inexpressible speed through immeasurable space on its parabolic course, suddenly, like an arrow piercing the earth, seemed to have struck here its one chosen spot in the black sky and stopped, its tail raised energetically, its white light shining and playing among the countless other shimmering stars.

It seemed to Pierre that this star answered fully to what was in his softened and encouraged soul, now blossoming into new life."


トルストイは本質的に映像的な作家である.天上の彗星について詩的に記述するときも,婚約者を裏切って別の男と駆け落ちを図るナターシャの内面的な変化ついて書くときも,あたかもその姿をありありと眼の前に見ているようにかく.そして,画家の一筆が絵画全体に魂をあたえるように,ほんの一言の描写で,なぜナターシャが裏切ったのかを納得させることができる.真に驚異的な表現力というほかない.

今回とくに驚いたのは,ナターシャが最初の誘惑を受けるモスクワのオペラ劇場の場面(第2部第8~10巻)である.田舎暮らしの灰色な日常を離れた彼女は,華やかで虚飾に満ちたオペラ観劇の社交場の雰囲気に酔わされていく.その過程で,元来奔放な個性をもつ若い女性が,自分がだれなのか,そこがどこで何が起きているのかが徐々にわからなくなっていく様子は,彼女の想像力が常軌を逸した突飛な方向に広がっていく記述に,象徴的にかつ適格に捉えられている:

"Now the thought came to her of jumping up to the footlights and singing the aria the actress was singing, then she wanted to touch a little old man who was sitting not far away with her fan, then to lean over to Helene and tickle her."


'and tickle her' を読んだときは,驚きのあまり誤植を疑った.この部分はかつて何度も読んだはずだが,記憶から飛んでいる.どうすれば,こんな突飛なことがかけるのか? ここでトルストイはまだ10代後半の女性に完全になりきっており,彼女の内面が著者の内部にプロジェクトされている.


『戦争と平和』の邦訳はいつくか出ており,そのうち2つは繰り返し読んだ(最初にどの訳で読むかは,非常に重要だ).英訳は2 versionsで読んだが,今回のPeaver&Volokhonsky訳は傑出しているのではないだろうか? そもそも外国語で日本語を経由しないので,その時々の場面が映像として直接脳内に焼き付けられる.視覚的なトルストイの本質がいっそう際立つのはそのせいかもしれない.


比較的若い頃(と言っても30代の後半だったが)最初に読んだときには,ナターシャの裏切りが理解できなかった.いま再び読んでみて,彼女の心変わりが完全に納得できる.これがわからなかったというのは,未熟だったというしかない.裏切られた側のボルコンスキー公爵も,彼自身の責任をのちに反芻することになる:

'" Don't leave!" was all she said to him, in a voice which made him wonder whether he ought indeed to stay, and which he remembered long afterwards.'


ウクライナ紛争が契機となってなのか,「文庫本の新訳が昨年完結した光文社によると,ロシアによるウクライナ侵攻後,書店からの注文がほぼ二倍になったそうです」と報道されている.いまの若い世代はどのような小説,とくに恋愛小説を読んでいるのだろうか? 

この小説はたんなる恋愛小説ではないが,その要素も含んでいる.なによりも,繰り返し読むことのできる深みをもっていて,新しい発見や感慨はみずからの経験とともに広がっていく.実際の現実の戦場の有様を記述しながらも,ここにほんとうに書かれているのは,我々がどのような思想信条をもつかに関わりなく,だれしも避けることができない生きる戦場の姿である.

残された600ページがいまの生活の光である.楽しみで仕方がない.



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